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とある編集者の晒しな日記

コンクリートジャングル東京の編集プロダクションに勤めるライターの実験室

【新・自殺論】生きるべきか死ぬべきか

社会経済

こんばんは、zorazoraです。 今日はシレッと遺書めいたものを書こうと思うので、タイトルを見て受けつけない、もしくは重たいテーマだと思った方は即ブラウザバックしていただければ幸いです。

 

そもそも、なぜこんな陰鬱なタイトルでブログを書き始めようかと思ったかと言うと、いろいろな方のブログを拝見させていただいて、病的な傾向のブログがあまりにも多いと思ったからです。

 

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※写真と記事は一切関係がありません

 

こういう病的な側面を持った方というのは、今に始まったことではなく遥か昔からたくさんいたはずなのです。しかし、歴史上の著名人でもなければそれを吐露する場所などなかったので、表だってあらわれてこなかっただけだと思います。

 

ですから、個人の手書きの日記をつけて、病的な、あるいは実際に病魔におかされた状態の気持ちを内包するよりも、いっそのことブログで白状してしまおうというのは、それ自体がストレス発散につながる可能性がありますし、誰かに見てもらいそれを理解してもらいたいという欲求のあらわれであれば、それはそれで問題解決の糸口になるかも知れないので、個人的にはブログの有効的な使い方だと思います。私自身、そういった方々とまったく同じ気持ちになることはできませんが、単に関心があるという理由だけではなく、今後の備えとしてそうした方のブログを拝見させていただくことはあります。

 

ところで、これまでさんざんおふざけブログばかり書いてきた私にも、病的な一面というものは当然あります。ひょっとするとかなり重症なのではないかと思うことすらあります。なぜ重症かと言うと、それが「原罪」に由来するものだからです。この言葉をご存知でない方もいらっしゃると思うので、一応ここで定義しておきたいと思います。

 

【原罪】とは:アダムが神命に背いて犯した人類最初の罪行為(旧約聖書の創世記)。また、人間が皆アダムの子孫として生まれながらに負う虚無性。宿罪。
(出典:『広辞苑』第六版,岩波書店

 

「アダムが犯した罪」というのは、旧約聖書に登場するアダムという男性が、蛇の誘惑により禁断である「善悪の知識の実」を食べてしまったイブ(女性)の誘いによって、アダム自身も食べてしまったことによる、全ての人間が生まれながらにして背負う罪とされています。私の解釈が間違っているのかも知れませんが、はっきり言ってこれを読んだだけでは何のことかさっぱりわからないと思います。

 

しかし、この言葉に苦しめられる前までは、私は正直言って自殺する人の気持ちなどわかるはずもないし、どうせ自殺するなら自分で墓でも掘って勝手に埋まっていただきたい!ぐらいに考えていました。例えば、なぜ電車に飛び込んで他人に迷惑をかけるのかということが全く理解できませんでした。

 

もちろん、これが理解できるようになったからと言って飛び込みや飛び降り自殺などを肯定するわけではないのですが、その心境に至る経緯のようなものは分かるようになりました。まったくの不可抗力に近いものに基づく可能性も否定できないからです。

1.なぜ「原罪」なのか

この「原罪」という言葉を初めて知ったのは、学生時代に三浦綾子さんの著書、「氷点」(角川文庫)を読んだことがきっかけです。

 

氷点(上) (角川文庫)

氷点(上) (角川文庫)

 

 

この物語の中心となるのは辻口という医師の一家です。夫である辻口啓造は、妻の夏枝が自分の留守中に不貞行為、つまり不倫をしていることを疑います。さらに、夏枝の密会の最中に、一人娘であるルリ子を佐石という男に殺されます。失意に暮れ、ルリ子の代わりとなる女の子が欲しいという妻の要求に、夫はなんと殺人犯の佐石の娘、陽子を養女として迎え入れることで復讐を企みます。そんなことなど露知らず育った陽子は、自分が人殺しの娘であることを悟ってしまうことから、「生まれながらの罪を背負った人間」としての呵責に苦しめられ(時に自死ということに向き合い)ながら生きることで、次第にこの事実を知る周囲の者も巻き込んで、「原罪」という一大テーマに迫った作品です。

 

五十年以上も前の作品ですから当時のことはよくわかりませんが、まったくの無名だった三浦綾子さんが、1000万円(当時としては破格)の朝日新聞社の懸賞小説に応募して入選したことから一躍脚光を浴び、社会現象化したほどの小説だそうです。その証拠に、今も続く大喜利で有名な「笑点」は、この作品をもじってつけられたタイトルだといいます。

2.改めて「原罪」とは何か

「原罪」についての定義は冒頭でしました。しかし、氷点でいうところの「原罪」と、キリスト教で定義する「原罪」とはニュアンスが違う気がしませんか?私自身、学生時代に氷点を読んでそれなりの衝撃は受けましたが、こと「原罪」ということに関して言うと、どうもピンときませんでした。

 

辻口一家の犯した罪というのは、全人類が生まれながらにして背負った罪ではなく、嫉妬や不倫、怨嗟、殺意といった後天的な要因による罪であって、「原罪」とは何も彼らの所業に限った罪ではないと考えたからです。

 

「原罪」の元をたどるだけが目的ではありませんでしたが、当時旧約聖書を買って教会に行ったりしてその真意を汲み取ろうと努力はしました。しかし、学生時代にその意味を理解することはできませんでした。

3.体験することであっさり「原罪」にとらわれる

 この「原罪」という言葉を理解するのは後年になってからなのですが、身をもって体験することで、あっさりその意味がわかりました。

 

それもいい大人になって、それなりに分別もついたと感じるくらいの年齢になっていた頃のことです。私はこの時、人生の岐路に立っていました。今考えればそれほど深刻な事態ではなかったのかも知れませんが、進むも地獄、退くも地獄というような立場に置かれていたと記憶しています。

 

それはちょうど夏休みで休暇を取っていた時のことだったのですが、私は丸三日ほど金縛りに遭ったのです。金縛りというか、それは言ってしまえば希死念慮(自殺願望)を伴うものでした。つまり、私の中の悪魔が、休暇中に滞在していた7階のビルから飛び降りるように命じたのです。

 

この三日間というもの、一睡もすることができず、ただベッドから引き剥がしてベランダから突き落とそうする自分の中の悪魔と、そうはさせまいとする意思が闘い続け、必死にベッドの縁にしがみついていたことだけは覚えています。結局四日目の朝にこの呪縛から解かれた頃には、全身が冷や汗でびっしょりと濡れていました。そう、私は自分の中の悪魔に打ち克つことができたのです。なぜ打ち克つことができたのかはいまだにわからないのですが…

4.自分にとっての「原罪」

この時に捉われた、私にとっての「原罪」というのは、極々身近なところで感じているようなことです。「私は何のために生きているのだろうか?」とか「私が生きる意味はなんだろうか?」とか、その程度のことです。ここが明確に見えている方は、そうそう生きることに挫折することはないと思います。

 

逆に、この疑問にはっきりと答えを見いだせない方、もっというとこれを失って悩んでいる方は、案外精神的に弱いのかも知れません。何故かといえば、「生きる意味」を失ってしまうと、この世に自分の存在など必要ないのではないかと疑ってしまうからです。

 

今思えば非常にバカげた話だと思うのですが、私が三日間苦しめられ続けた「原罪」というのは、時に自身の人生に暗い影を落とすことがあります。だって、「生きる意味」など見出すことは今もってできないのですから。 

5.人間は地球にとって有益な存在なのか

「原罪」という概念を突き詰めていくと、人類に関するあらゆるものが地球環境にとって有益なのか疑問に思うことがあります。むしろ、日常生活のワンシーンひとつをとっても、毎日毎日家庭や会社でなぜあんなにゴミを排出するのだろうか?とか、恋だの愛だのと言っている自分がいかに人を傷つけ、身勝手で傲慢な存在なんだろうか?と思うことがあります。あれが欲しい、これが欲しいという物欲にしてもそうです。

 

また、先進国でこそ人口は減少していますが、世界全体を見れば人口は増大しているのです。一方では、アジアやアフリカといった後進国では毎日たくさんの人々が飢餓や病気で亡くなっています。自分一人が幸福になることに何の意味があるのかと疑ってしまうことすらあります。

 

先進国で豊かな生活を送っている我々は、動物にしろ植物にしろ、果ては後進国の低賃金で過酷な労働を強いられている人々ですら犠牲にして生きているのではないかという気までしてしまいます。選民思想とか、特別に選ばれた人間であるという自覚があればこんな思いはしなくても済むのでしょうが、我々日本人がこれだけ豊かな国に生まれながらも、まだこの生に飽きたらず、自身を死に追いやるほど追いつめられる感覚は一体なんなのでしょうか。

 

自殺論 (中公文庫)

自殺論 (中公文庫)

 

 

私はこの問題についてずっと考え続けてきました。「原罪」にとらえられてから、それこそエミール・デュルケムの『自殺論』を借りて読むほどこの問題と向き合いましたが、遠く理解には及びませんでした。自殺を一般化することはできても、最後はあくまで主観的な動機によるものなので、個々人のケースにまで落とし込んで解を見つけることは不可能だと言っていいと思います。

6.To be, or not to be… 

「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」

 

シェイクスピアの戯曲、『ハムレット』に登場する有名な言葉ですよね。私が自殺ということを考えた時に思い浮かべることは、元来人間に自殺する権利のようなものが認められているかどうかということです。恐らくそんな権利は、憲法をはじめ、どの法律をひも解いても認められていないでしょう。

 

では、人間以外の動物に関してはどうでしょうか。自殺をする動物というのはほとんどいません。自殺は他の動物に先んじて人間が勝ち取った自由意思のひとつであるという考え方があるとすれば、それはあまりにも不遜な考え方ではないかと私は思ってしまうのです。

 

しかし、希死念慮、つまり自殺願望というのは厳然として存在します。上記のように不遜な考え方だと思っている私ですら、突如としてビルから飛び降りたくなるような衝動に駆られることがあるのです。ですから、私は自殺者を責めることもできなければ、それを止める術も知りません。

7.生かされているということ

これが結論になるのですが、「生きる」「生きない」という自分の意思で生死を選択するという考えから、「生かされている」という事実に着目してみるというのが、今のところ私が出した答えになっています。

 

どんなに辛い境遇であれ、今現在私が「生かされている」ということは、それ自体に意味があるのかも知れません。もっと言ってしまうと、生きる意味などなくてもいいのかも知れないとさえ思うことがあります。考えれば考えるほど「原罪」のどつぼにはまってしまうからです。

 

結局、誰かを傷つけたり、傷つけられたり、何かを犠牲にして生きるということは、そこに何らかの意味が「与えられている」と勝手に解釈をすることにしています。

 

自殺をする理由にはさまざまなものがあると思います。多額の借金を負ったから、職を失ったから、失恋をしたから、受験に失敗したから、家族を失ったから…こうしたことを経ても、結局今あなたが「生かされてる」ということは、現生において何かの使命を負っているのかもしれません。そう考えでもしないかぎり、世の中というのはあまりにも不公平で、不条理なものだと思えて仕方がありません。

 

私もこの与えられた生があるうちは、いろいろと足掻き、もがきながら試行錯誤していきたいと考えています。

 

※記事内容は予告なく変更されることがあります(最終更新日時:2016年7月27日23時24分)